「なんで合唱コンクールに順位づけがあるの?」

 先日、MJ中学生よりこのような問いを受けました。
「先生、なんで合唱コンクールに順位をつけなくちゃいけないの?」
 
 その質問を受けた1週間後、彼女の通う学校の合唱コンクール観覧に行ってました。

 

 彼女のクラスの合唱は輝いていました。合唱団の中にもMJ生がいましたし質問主のMJ生はピアノを弾いていました。そして、彼女のクラスは優勝しました。

 

 確かに彼女のクラスは他のクラスと比較して歌唱力があり、音楽的にもまとまっていましたし、気持ちもまとまっていました。他方、他のクラスも非常に気(元気、エネルギー)があったり、個別のやりたいことが見え隠れするクラスもあり、それぞれユニークな合唱でした。

 

 中学2年生です。

 

 冒頭の彼女、よくぞこのことに気づいたと思います。成長期の、いい時期に。

 

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 MJでは、幼少期より「自己の表現したい音楽」を目指して練習しています。自分が表現したいことを念頭に、さまざまに掘り下げながら、レッスンは進んでいきます。音楽理論、国理数社(地歴)などの知識は音楽共通語として教え、テクニックは表現の自由をより得るために伝えていきます。

 

 ただ、MJのように「表現したい音楽」を目標に練習するのは自己表現であり、「社会が求めている音楽美」に合わせて競うのとは別です。ゆえに、MJには、音楽の美しさは数字に置き換えたり、ランキング付けしたりすることには非常に慎重であるべき、との前提があります。その代表例がコンクールですが、コンクールには「音楽の規範、模範」を示したり要求されたりする力が強く、特に子ども時代は自己や他己肯定感を育むのに重要な時期という観点から、それを受ける必要はない、とMJでは考えています。万一コンクールを受けて友達間に順位が生まれ優位性がつくなどしたら、子どもの対応は大人のそれより時として残酷です。他方、生まれながらにして子どもは皆芸術家という観点からも優位性は存在しませんし、そもそも教育が追いつきません。何より、この息苦しさからは子どもは自由でいてほしいものです。
  
 ただ、生きていくこと、を考える時期にさしかかってきたら、ある程度社会が求めている「美」に合わせる必要があるという考えも、理解できなくはありません。先日のチャイコフスキー国際コンクールを受けて上位入賞したコンテスタントが、「コンクールは必要悪です。ただ、ピアニストとして生きていくためにある程度有益なことも理解しています」と話したことは、よく覚えています。

 

 世間における仕事の順位とは、かなりの部分において先天的な才能の優秀性に由来する人間の序列があることは否めません。音楽(芸術)に限らずスポーツや大学受験など、世間のいろいろなランキングは、「先天的な能力」と「後天的な努力」を合わせた結果としてもたらされる総合値が影響することが多々あるでしょう。MJでは、そういった社会的なことは、学生が独り立ちしようとする様々な節目に学生自身が考えていくべきこと、と考えています。

 

 MJでは、これまでもこれからも、学生が「自らが表現したい音楽」を模索するには何をどうしたら良いか、そこにしっかり向き合っていきたい、と考えています。表現者である学生たちが子どもの頃からそのような習慣をつけていれば、近い未来、どのような状況で選択の節目の時期が訪れても、自らに自信を持った状態で人間味を持って理性的に熟慮でき、未来に開けるであろう道を歩むことができる、と思っているのです。

 

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…そんなこんなで、彼女との会話の中で、なんであなたはそう思う?を先に聞き、MJの考えは端的に伝える、でとどめ、結論は出ていません。それは、彼女がこれから考えていくことです。

 

より深く学び始め、心身も大きく変わる成長時期の中学生からこの質問が出たのは、とても意義のあることでした。

 

そんなこんな、で。

 

MJ

10:27 AM , 21/11/2023 「なんで合唱コンクールに順位づけがあるの?」 はコメントを受け付けていません
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