2011年3月11日 <東日本大震災>
10年が経ちました。
MJの学生たちは、多くが小学生かそれより小さい子どもたちでしたね。
まだ、生まれていなかった学生もいますね。
MJは、この節目に、震災とMJ、そしてMJスタジオのことをお話ししたいと考えました。
実は、今あるMJのスタジオは、震災当時はありませんでした。というのも、双葉屋さんというお母さんのおなかの中にはいたのですが、まだ生まれていなかった。では、MJはどうしていたかというと、それまでは、あきこ先生が以前住んでいた小さな自宅の一室で、レッスンを行っていたのです。
(MJ仲間の中では、ゆり姉さんやまり姉さんが小さい頃にそこでレッスンを受けていました。現在のMJ生でそこを知っている学生さんはいません。)
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2011年2月までは、双葉屋さんの3階は、間借りしていたたかさんのオフィスと双葉屋さんの物置となっていました。そして、3月始めに、今のMJスタジオを作るために、たくさんの資材が運ばれました。3月10日、ちょうど全ての資材の搬入が終わって、3月12日から工事着工、という予定が組まれていました。
3月10日、たくさんの木材や防音材が、待合に所狭しと有りました。
3月11日。あの日がありました。東京は震度5強、東日本大震災です。
その日、MJ大背戸は幼稚園児の子どもと自宅で過ごしていました。揺れが収まり家族の無事を確認した後、当時MJ生だった近所のお子さんの保護者さんが帰宅困難者となったと知り、そのお子さんを呼び寄せ一晩一緒に過ごしました。その保護者さんは、都心の会社から徒歩で数時間かけて夜遅くに帰られました。夕方ー深夜ー明け方まで、甲州街道は、その保護者さんのような人で溢れていました。当時、帰宅難民、と言われました。あのような人の波を、今まで見たことがありません。
双葉屋さん3階に運ばれた資材は、倒壊などの難を逃れました。ただ、震災その日から、資材市場は滞り、運搬路も通常ではありませんでした。ただの偶然でMJに資材はあり、無事でしたので、MJの工事は予定通り12日から始まりました。
震災の歴史と、MJスタジオの歴史は、同時に進行しました。
MJは、その年のラボで、邦人作曲家の勉強会をしました。
美しく優しい旋律や、祭りの賑やかさや勇壮なリズム、その時のMJ生が、それぞれに思いを寄せながら弾いていたのを、今でも思い出します。
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今あるMJスタジオは、心を寄せることから始まりました。
みなさんは、震災から、何を思いますか。
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震災のあと、邦人作曲家の勉強会のことを、運営からプログラムまで、頭を付き合わせて考えた当時高楽年会生だった、ある学生の話を一つ。
その数年後にMJを巣立った彼女、巣立った後も、あのカウンターで一人湯を沸かし、被災地のお味噌をカップで溶かしながら「味噌汁」を飲み、MJに少しの時間を過ごしに来続けていたのは、ナイショです♪